2012年05月10日
vol.77 重荷は降ろしたかい? 追悼 レボン・ヘルム
ザ・バンドのレボン・ヘルムが亡くなった。4月19日永眠。しばらく前から病床についていたという。
最初にお断りしておくけれど、彼の名前は、今はリヴォンと書くようだし、実際の発音もそちらに近いのだけれど、ここでは昔から慣れ親しんだレボンで書きます。
ザ・バンドを初めて聴いたのは「ロック・オブ・エイジス(1972)」だったと思う。はっきり言って何がいいのか、ちっとも分かりませんでした。だって地味なんだもん。「ハイウェイ・スター」とか「アメリカン・バンド」とか「ハイ・ハイ・ハイ」とか「嵐の恋」とか聴いて喜んでた中学生にとってはね。ボブ・ディランのバックバンドとして・・・という情報は知ってました。それに倣って、岡林信康の「はっぴいえんど」とかよしだたくろうの「猫」とかもあったし。だけど、ディランと演っているザ・バンドの音源もない。まぁ今にして思うと「セルフ・ポートレイト(1970)」とか「ウディ・ガスリー・メモリアル・コンサート(1972)」とかあったワケだけれど、まとまった音源でもなく、それに気づかなかったし、聴いたとしても「何だかなぁ」だったと思うな。
そんなザ・バンドの印象が変わったのは1974年のディランとの共演盤、スタジオ録音の「プラネット・ウェイブス」とライヴ盤「偉大なる復活」だった。前評判も高かったこの2枚、これがこの極東の地においては「初の本格的共演盤」だった。「プラネット」はFMで全曲放送したのでエアチェック、ライヴはお年玉(?)で買った。どちらも、かっちょいいではないですか!! で、あらためて「ロック・オブ・エイジス」を聴くと「偉大なる復活」のザ・バンド単独部分よりも更に良い! という具合にザ・バンドとのお付き合いは始まっていく。
レボンを生で見たのは3回。1977年ザ・バンド解散直後のRCOオールスターズ、1989年リンゴ・スターのオールスター・バンド、1994年再編ザ・バンド。1983年と87年にも再編ザ・バンドとして来日しているけれど、これは行けなかった。というか来日していることを知らなかった。以前、お客さんの学生Oくんが「ロック好きのオトナの人って必ず聴いていない時期があるんですよねぇ。」と不満げに語っていたけれど、オトナには仕事だったり子育てや家庭の事情だったりと、趣味にかまけていられない時はあるのだよ。このへんが僕の第一の暗黒時代。
83年のライヴは後にVHSとレーザーディスクでソフト化された(DVDにはなっていないけれど最近CDが発売された。)から、疑似体験はできる。リチャード・マニュエルがいる、ということが感激モノなのだけれど演奏自体はバック(サポート?)に連れてきたケイト・ブラザースとミックスされたような音でイマイチ感もある。が、87年はリチャード没後間もなくのライヴで編成は残った3人にギターのジム・ウィーダーを加えただけのコンパクトな編成。このギターの人はこれ以降の再編ザ・バンドにずっと在籍する、結構いいギターを弾く人だし、ビデオ撮りもされていないと思うので、この時に見に行かれた方はたいへん貴重な体験をされていると思う。RCOオールスターズは何か「伝説のコンサート」みたいになっていて、いろんな人がいろんな所でいろんな事を書いているけれど、87年来日公演の様子は全く分からない。どなたか行ってませんかぁぁ?
で、そのRCOオールスターズ来日公演。当時、東京に出てきたばかりの大学一年生。仕送りのお金もレコードを買いすぎて、ほとんど無かった。同時期にリック・ダンコも来日だけれど両方は行けない。行くならレボンか。同級生を誘ってみたら「それだけの金があれば10回、学食でメシが食えるじゃんか。」と言われたので「10回、メシを抜けば行けるんだぞ。」と言い返したら、フフンと鼻で笑われてしまった。当日になってもウジウジ悩みつつ授業に出ていたりしたのだけれど、どうにも落ち着かない。意を決して授業を抜け出し、一人で会場の渋谷公会堂へ。
渋谷公会堂は、ネーミング・ライツとやらで、CCレモン・ホールと改称されていたけれど、この度、サントリーさんが契約更新せず他のスポンサーも現れなかったため、元の渋谷公会堂の名前に戻っている。僕ら世代には、それでヨシ、なのだけれど、この先「昔は、CCレモンホールって言ってねぇ。」「あぁ懐かしいね、シブコーなんて、しっくり来ないねぇ。」なんて世代も作ってしまっているのだろうね。
それはともかく。当日券を買って、ステージから一番遠い席での観戦。観客は99%が男性、しかもおじさん。(と言っても18歳の僕から見て、であって、20歳代後半から30歳代くらいが中心か。今のように観客白髪だらけ、なんてことはない。) レインボウ札幌公演での死亡事故から、そんなに経っていない頃でもあり、走るな、暴れるな、の注意事項がステージ上の係りの人から告げられ「今日のお客さんはやらないと思いますけれど。」と付け加えられると、観客席から失笑が漏れた。
パフォーマンスは最高。ドクターもポールバターもいなかったけれど。RCOのアルバム収録の「シング・シング・シング」が良かった。ボーカルもいいんだけれど、やっぱドラムがいい。後のライヴでマンドリン弾いたりハモニカ吹いたりばっかりしているのを見ると「そんなことしてないでタイコ叩けよ」と思ってしまう。途中、レボンがスネアをタンと叩いて「Thank you,YAMAHA!」と。ヤマハがセットを提供したんでしょうね。この頃からヤマハはドラム・メーカーとしても世界的なメーカーになっていく。
コンサート終了後、ステージ上から「明日の前売り券もまだあります。明日は凄いゲストも登場します!」とアナウンスが。帰ろうとしていた人たちが「ロビーか?」「ロビーが来るの?」と足を止めた。うん、当時、レボンとロビー・ロバートソンが不仲だなんて日本中の誰も知らない。「明日はボビー・チャールズが参加します!」とアナウンスされると「何だ、ボビー・チャールズかよ」とみんな帰っちゃった。今から思うと、たいへんもったいない話。ま、僕はお金がないので、どうせ行けなかったのですが。
「伝説のコンサート」と言ってもチケットは売り切れていなかった。キャパ2000人の渋公で。ウッドストックで40万人の前で演奏し、ワイト島でも、そしてワトキンス・グレンでデッドとオールマンズとの3バンドだけで60万人を集めたバンドの主要メンバーでも。しかし、それでもホール・コンサートで「ほぼ」満席。再編したザ・バンドはアメリカではライヴハウス・クラスの会場で、ごく少ない観客を相手にツアーを続けていたという。86年にリチャード・マニュエルが自殺する直前、「自分が堕ちていく気がする」と言っていたという。(83年の来日公演でホール・コンサートをやれて気分は少し上がったらしいが。)
「一介のバー・バンドとして」少ない観客でも演奏していたかったレボンと、上昇志向の強い「音楽業界一いけすかない成金野郎」とまで言われたロビーとの間に挟まれて、リチャードはドラッグと酒の力を借りて自滅していったようにも思う。ザ・バンドのリーダーであったレボンは、才能豊かな若者ロビーにバンドを乗っ取られてしまったような悔しさとか嫉妬とか、そういう感情もあったのではないか。
しかし。レボンは著書の中で「リチャードがリードボーカルだと思っていた」と書いているけれど、ロビーの書く曲はレボンのボーカルに一番しっくりくる気がする。(リチャードの「名唄」はカヴァー曲に多い。) ロビーはリーダーのレボンのためにああいう曲を書いていたのか、レボンのボーカルがロビーにああいう曲を書かせていたのか。分からないけれど、レボンとロビーの中だけの化学反応はあったし、ザ・バンドの5人の中にも「魔法」があったことは間違いない。
ザ・バンドの5人のうち、リード・ボーカルを取っていた3人、自然に自由に生きていたような3人が亡くなり、理論派のような2人が生き残った。レボンの死の直前、ロビーが見舞いに訪れたという記事も見た。2人は和解できたのだろうか。天国に行ったレボン、リチャード、リックの3人で「ロビーのクソガキも根はそんなに悪いヤツじゃないんだけどな」なんて言いながら、呑んだりセッションしたりしていてくれることを。合掌。
HANJI
ライブ・アット・パラディアム1977
レボン・ヘルム&RCOオールスターズ
ライヴ・イン・トーキョー1983
ザ・バンド
ロック・オブ・エイジス
ザ・バンド
ボブ・ディランとの共演などの未発表曲を含む完全盤。
偉大なる復活
ボブ・ディラン&ザ・バンド
流れ者のブルース
ザ・バンド伝記本。読み応えあり。
ザ・バンド 軌跡
リヴォン・ヘルム
自伝。後半はロビーへの罵詈雑言。現在アマゾンで入手不可。上の本もこちらも七面鳥カフェに置いてあります。
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- by 七面鳥カフェ
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